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中村哲医師と山田堰

故​中村哲医師からのメッセージ

​~世界に誇れる山田堰~

 私たちPMS(平和医療団・日本)=ペシャワール会は、1984(昭和59)年からアフガニスタンやパキスタンで復興支援活動を続ける医療組織で、主にアフガニスタンの貧民層の診療に携わってきました。

​ 2000(平成12)年以降は、戦乱に加えてかんがいに襲われ、おびただしい数の人々が飢餓で死にました。医療以前の問題で、清潔な水と食料さえあれば、犠牲を出さなかったでしょう。そのため、飲料水を求めて井戸掘りに奔走し、6年間で1600ヶ所に水源を得ました。

 2003(平成15)年からは、食料生産の用水を得るため、全長25.5㎞のマルワリード用水路建設に着手しましたが、「取水技術」の壁に突き当たっていました。アフガニスタンのどこでも誰でも多少の資金と工夫で出来るものが理想です。解決は意外なところにありました。近世・中世日本の古い水利施設です。当然すべて自然の素材を使い、手作りのものです。

福岡県朝倉市の「山田堰」との出会いは決定的でした。筑後川もクナール革川も規模こそ違え、急流河川、水位差が極端な暴れ川という点で似ています。「傾斜堰床式石張堰」を調べれば調べるほど、他に方法がないと確信しました。

「山田堰」をモデルに2003年3月~2010年2月までの7年間を費やし、マルワリード用水路が開通、広大な荒廃地3,000haが農地となり、農民15万人が生活できるまでに復興、新開地の砂漠で田植えができるまでになりました。

 自給自足の農業国・アフガニスタンの水欠乏と貧困は、近年の地球温暖化による取水困難が深く関係しています。現在、「山田堰方式」を隣接地域に拡大、荒れた村々を次々と回復し、60万人の農民、1万6000haの農地が恩恵を受けています。

 「山田堰」が時代と場所を超え、多くの日人々に恵をもたらした不思議。朝倉の先人に、ただ感謝です。

技術的に優れているだけでなく、輝くのは、自然と同居する知恵です。昔の日本人は自然を畏怖jしても、制御して制服すべきものとは考えなかった。治水にしても「元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら罰があたるけれど、触れないと生きられない」という、危うい矛盾を意識し、祈りを込めて建設に挑んだと思われます。その謙虚さの余韻を、「治水」という言葉が含んでいるような気がします。

​ 1790(寛政2)年測量技術も重機も無い時代に造られた「山田堰」は、紛れもなく日本が誇れる「歴史的農業遺産」です。この堰が時を超え、現代の私たちに語りかけるものは小さくありません。国内外に広く知られ、輝き続けてほしいと心から願っています。

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堀山田堰に中村哲医師の記念碑・記念塔建立

2019年12月4日、何者かの銃撃により中村医師は亡くなられた。

1984年38歳でパキスタンペシャワールに医療活動のため着任。パキスタンとアフガニスタンでPMSの活動を35年間行い、73歳の生涯であった。

記念碑には、先生の写真と「濁流に沃野見る河童かな」

​記念塔には先生が好きな言葉「一隅を照らす」自筆の文字が記されている。

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